人生実践あるのみ!やってみたもん勝ち

やらない後悔より、やる後悔を

縛りと許しと、罪悪と

こんにちは、山本です。

 

おかげさまで、昨日は真昼間から銭湯&岩盤浴3時間すごせました。

そんな時間の中で、ぼんやりと思ったことを綴ります。

 

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<目次>

  

 

縛られている自覚

幼い頃から「すべき」や「するべきでない」に縛られてきた。「それはダメ」「あれはダメ」って。

 

女の子なんだから、どうとか。まだ子どもなんだから、そうしろとか。

 

それが、その人個人の見解なのか、世間様の総意か。常識か、習慣かはわからないけれど、考える余地も与えられず埋め込まれたと思う。

 

 

 

子どもの頃は「なんでダメなんだよ!大人のバカやロー」的なこともあったと思うけど、どこから諦めたんだろう。

 

だんだんと「禁止」されたら逆らわない自分が出来上がっていたように思う。上(自分より年長者だったり、支配的立場の人、世間)からの「禁止」に、従うことに慣らされていたと思う。

 

 

不満には思うけど、逆らわない世界。

 

 

以前勤めていた会社にも、くっだらないルールがあった。上司が個人的にイヤなだけで禁止になっていることや、会社の常識内での違反に対する禁止だったり。

 

 

就活でリクルートスーツの子たちを街で見かけると、地獄だなと思う。AOKIや青山の季節だな~と思う。バレンタインのチョコレートみたいな。

 

 

みんなあのスーツじゃ個性どころじゃないじゃん。私が見たさっきの女子と、今横通った女子、髪型まで同じだったよ。クローン。

 

企業が何で採用しているのかが、もう謎。それでいて、会社に入って自由な発想とか独創性とか、求めること自体が鬼。

 

 

 

でも、就活スーツを脱げない。世間のおかしなルールに縛られている。

 

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許してほしい

私も、ガチガチに世間や年長者や支配的立場の人に縛られてきた。もう思考は停止していたと思う。

 

世間からも「アリとキリギリス」のキリギリスだと、おそろしく非難される。サボったらダメ。働かざるもの食うべからず。努力は美徳。会社が一番。

 

サボれるところもサボらない。キリギリスになってはダメ。サボるとバツがくる。お天道様が見てる。

 

 

 

幼少時代は、教えられた常識と良心を大事にしてきたのに、大人になると常識と良心が喧嘩したりもする。

 

周りを大事にして、自分より会社、世間。端を楽にしてこそ仕事。

常識と良心が結託して私を殺すこともある。

 

 

 

自分の発言もいちいち確認を取るようになっていた。「正しいですよね?」「私のこの考え合ってますよね?」「世間の常識から外れてないですよね?」って。

 

 

たとえば有給。権利。でも「休んでいいですか?」って一応気を使って聞いちゃう。そうすると返ってくるのは「仕事はひとりでしているわけではないんだよ!周りにも迷惑がかかるから、簡単に有給取るっていわないで。みんなも考えて取得してんだから。」

 

どういうこと? うそでしょ? みんなそんなに気をつかっているの? どこまで連帯責任なの? え?子どもの行事だと取りやすい? え?自分の身体を休めたいだけの有給はダメなの? え?どこまでみんな正直なの? 誰もウソついてないの?

 

 

 

一度、自分の判断を手放すと、その後は自分の行動に自分以外の許可をもらいたくなる。

 

自分の良いと思ったことより、自分以外が良いと思ったことに沿う。「いいね」って言ってって。私もそっち側だから、安心して許可して。承認して。

 

 

多分以前の私だったら、会社を休んでも、どこかで後ろめたさを感じていたと思う。

 

例えば、昨日みたいに私が岩盤浴に行っても誰にも影響ないのに、誰かの許可がほしくなっていたと思う。おかしな人だ。

 

おやすみ明け、妙に会社に忠実になったりして。なんの挽回だ。

 

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罪悪なんて幻想だ

罪悪感を背負うように仕組まれている気がする。

 

「遊び呆けたら、あとで泣きをみるんだ」と。だから、サボろうものなら、罪悪感が湧き上がる。誰にも責められていないのに、自分が一番知っているから、一番怖い。

 

 

脳内がうるさくなる。

 

 

大嫌いな世間や年長者や支配的立場の人に、ひれ伏す気になる。どこまでも縛られていると思うと悲しくなる。

 

誰に許してほしいんっだろう。誰だったら、私を許せるのだろう。なにによる罪なのか、わかってもいないのに(ありもしないのに)心が病む。

 

 

私はキリスト教徒でもなんでもないけど、イエスがよく語ったとされる「放蕩息子」の話が好きだ。

 

 

 

父と二人の息子がいて、ある日、下の息子は財産の分け前をすぐにもらいたいと父に頼む。

 

父は財産を分けてやり、息子は自分の人生を生きるために家を出ていった。

 

息子は放蕩の限りを尽くし、お金も底をつきスッカラカン。分けてもらった財産を浪費したことで父から罰が下されると恐れて、息子は怖くて父の元に帰れない。

 

息子はどうにか仕事を得て、どうにか生き延びる。

 

時が経って、息子はまだ家を出たことに罪悪感を感じていたし、父から受けるであろう罰を恐れていたけれど、ついに父の元に帰ることにした。

 

息子が帰ると父は両手を広げて歓迎し、何事もなかったかのように息子が帰ったことに喜び、宴を開催し喜んだ。

 

 

 

この話のどこが好きかって?

 

 

息子の気持ちがよくわかるし、罪悪感の生まれもわかる。父がなんとも思ってなくて許すところも好き。

 

だけど、一番好きなのは、この話がひとり芝居なところ。幻想に悩まされているところ。幻想が現実に思えているところ。

 

幻想を大事にしているところ。

 

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まとまらなくなったけどまとめ

罪悪で縛るより、許容の広がる世界がいい。

 

みんな違うのに、未来を同じにしようとするのはムリがある。

 

 

Aさんがやって痛い目みる。AさんはBさんに語り継ぐ。Aさんの失敗を聞いたけど、Bさんも同じようにやってみる。Bさんも痛い目をみた。

 

 

としても、Aさんが「ほらね」っていえることではないと思う。

 

 

昨日息子から聞いた学校での出来事。算数で100点とったCくん。でもCくんの隣の席のDちゃんが、Cくんの解答用紙をみて「あ、1番の問題。答え間違っているのに先生が丸つけてる。せんせーい!Cくん100点じゃあんりませーん」。

 

先生もミスするし、100点でええやんけ!

 

「ラッキーだったね」と許さんか?

 

 

 

やばい、まとまらない。

 

 

誰かの人生にダメを言うと、自分の人生にダメが増える。許容を増やそう。自分と同じ考えだから「いいね」というより、考えが違っても「君らしくて、いいね」や「それもありでいいよね」「全然考え違うけど、真反対すぎていいね」という許容を増やそう。

 

見張り合う世界ではなく、自分の広がりを楽しむ世界にしよう。

 

 

だめだ、まとまらない。今日もちょっと考えよう。

 

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