わたしと現実と問題
ある架空の人物のストーリーをお話しします。
「わたしはサラリーマンで、会社では総務部に所属しています。
わたしは仕事は好きです。
でも、わたしの上司が本当に堅物で、昭和人間の典型です。
いまだにわたしにお茶汲みをさせるし、
上司の時代では普通だった、
プライベートを犠牲にするような働き方をわたしにも求めてきます。
わたしはもう、この上司に耐えきれません。
わたしの夢は、転職して、もっとわたしの能力を認めてくれる職場に出会い、
わたしの人生を豊かにすることです。」
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「サラリーマンで、会社では総務部に所属しています。
仕事は好きです。
でも、上司が本当に堅物で、昭和人間の典型です。
いまだにお茶汲みをさせるし、
上司の時代では普通だった、
プライベートを犠牲にするような働き方を求めてきます。
もう、この上司に耐えきれません。
夢は、転職して、もっと能力を認めてくれる職場に出会い、
人生を豊かにすることです。」
上の文章と下の文章の違い、わかりますか?
そう、下の文章からは「わたし」が消えていますね。
ではここで、
上の文章と下の文章をそれぞれ声に出して読んでみてください。
バカバカしいかもしれませんが、大丈夫。
声に出して読み上げた時の、
あなたが感じる「感覚の違い」を体験してほしいんです。
上の文章を読み上げた時の方が、自分に近く感じませんでしたか?
感情が動く感じがないですか? 口調が強めになっちゃったりして。
別の言い方をすると「わたし」なる登場人物を想像しませんでしたか?
そして、そんな「個人」がいるように捉えませんでしたか?
下の文章は「主語」がないので、どこか定まらないような「誰か」のこと、
または「誰でもない」ことに感じたのではないですか?
感情が動きにくくないですか?
そして、比べてみると上の文章の方が「問題」の色が濃くないですか?
上下の文章の違いから言いたいことは、
「わたしのこと」って思う強さによって起こる「問題」にあたえる重要性。
今起こっている現実に「問題」があっても、
それをわたし以外の人に起こった出来事、他人の話しと捉えると、
「問題」は一気に「問題」じゃなくなります、ってことです。
「わたしのこと」って思う強さがなければ起こる「問題」もない。
「は?そんなの当然じゃない!自分のことだから深刻なんだよ!問題なんだよ!」
お怒りはごもっとも。
でも、それくらい目の前で起こっていることと「距離」をとってみないと、はじまらないんです。
「問題」をなくしたかったら「問題」と思わないこと。
自分の出来事と思わないこと。
「じゃあ、感情を押し殺して、涼しい顔でもしていればいいって言うの?そうしたら問題はなくなるの?」
反感を恐れずにいうなら、その通りです。
「感情を押し殺す」ことについてですが、「感情にフタ」をしたり、「なかったことにする」となった時点で、すでに「問題」を「問題」と捉えて判断している状態なので、もう感情はわきおこっちゃってます。フタできてないし、押し殺せないし。
なので、感情が起こる前の、「問題」と認識しないために
「思考しない(判断しない)」がお願いしたいことです。
そしてその「思考しない(判断しない)」は、
「自分ごと」と捉えないことで可能になります。
例えば会社の休憩室で、女子5人くらいがヒソヒソ話しています。
内容はどうやら誰かの悪口、批判。
「わたし」が休憩室に入っていって、ヒソヒソを耳にします。
その時、なにも「問題」は起こっていないです。
次の瞬間、悪口の対象が「わたし」だとわかりました。
一気にそれは「問題」となります。
今、「一気に」といいましたが、実はその中身をみると
(「一気」の中で起こっていること:「思考」→「問題」)です。
もう少し細かくすると、
「自分ごと」→「思考」→「問題」です。
「やっぱり、当たり前すぎること言ってるから、何が言いたいのかわかんない」
まぁ、それくらい、当たり前=疑問をもてない、疑えない、でしょうね。
じゃあ、さっきのヒソヒソの悪口の対象が「自分以外の誰か」だとわかったとき、
「他人ごと」→「思考」→「問題」ってなりますかね?
この例の「他人」が自分の近しい同じ部署のAちゃんってことじゃなくて、
身も知らずの人と思ってくださいね。
これがよく「問題は自分が作り出している」といわれる仕組みです。
図を逆からみるとわかると思います。
「問題」→「思考」→「自分ごと」
あ、逆にしなくてもわかるか。
「問題」は「自分」が作ってる
「問題」は「自分ごと」ととらえることで作っている
「自分」から「問題」ができている
「自分ごと」ととらえることから「問題」ができている
言ってみると、なんだ、特別でもなければ、変哲でもないな。
で、本質はここからですが。
わたしと現実と問題に、関連性はゼロ、ないです。
「えー!今さっき“自分が問題を作ってる”とか言ってたじゃん!」
個人の「わたし」があることで、個人的に捉える「現実」があって、個人的に思考した結果「問題」ができた、
このレイヤーで言っているのが「問題は自分が作り出している」で、
「自分ごと」→「思考」→「問題」ですね。
こうみると、いかにも「流れ」があって、関連性もあるように見えますね。
ただ、実際は「個人的なわたし」がいないので、「個人的な現実」なんてなくて、わたしを捉えられない場合思考は動かないので、問題が発生しないんです。
「自分ごと」なんてないので、特定の自分がみる偏った、または限定された現実もないし、思考する「自分」がいないので、「問題」というものはなく「現象」だけがあるんです。
「いろいろツッコミたいけど…“個人的なわたし”っていうのが、一番違和感あるんだけど」
だね。
思考は、他人とは別の「わたし」があると思い込ませているからね。
思考に見つからないところで話をしないと無理かもね。
ま、でもあえて続けると、
「わたし」が作り出している「現実」なんてないんだから、「問題」なんて起こるわけないじゃん、なんですよ。
「ちょっと、すっ飛ばした感があるなぁ」
みんな「わたし」に敏感で、
「わたし」にかかわることだ!と察知した瞬間に「思考」が始まるから。
でも「思考」は「わたし」が大好き。
「わたし」がないと動けないんだよね。
のくせに「思考」は「わたし」を守っている風で苦しめるけどね。
「わたしがある」っている立脚では、理解しにくいから、
ちょっとでも、そこからズレてほしいです。
まずは、
はじめから「問題」はないこと。
現実とよばれる、個人的見解の塊のストーリーもなくて、
わたしもいない。
「わたしのこと」って思う強さがなければ起こる「問題」もない。
これを聞いたら、ホッとしません?